いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター(IMC)




















  『本』の中のメンタルヘルス 軍隊・戦争




    ドイツ
    強制収容所体験のような特定の負荷状況から日常一般の負荷状況へ
     小俣和一郎著 『ドイツ精神病理学の戦後史』

    1950年代後半から60年代前半にかけての限られた一時期に、精神病理学は強制収容所から
   開放された被迫害者が呈する様々の精神症状についての、一連の客観的研究を行なってはいる。
    ……このような研究のきっかけとなったのは、1953年に当時の西ドイツ連邦会議において制
   定された、ナチ時代の被迫害者に対する補償措置『連邦補償法』(BEC)であった。この法律に
   よって、強制収容所体験者で健康上の被害を被った者にも、はじめて一定額の一時金または年金が
   支給されることになった。
    ……
    人間としての自己を否定されることは、自己存在の基盤ともいえる自尊心の破壊をもたらす。わ
   れわれは通常、自分の価値や自分自身の存在意義を、どこかで肯定しながら生きている。それが他
   者によって強烈に否定され、あるいは否定され続けたとき、人間は生きる意欲を失ってしまうであ
   ろう。その先にあるのは、生存そのものの最終的否定、つまり死以外では有り得ない。……
    たしかにアウシュビッツにおける日常が、重労働、飢餓、拷問、人体実験、選別などの恐怖に満
   ちていたことは今ここで再度強調するまでもない。しかしながら、強制収容所における体験を、た
   だ単に肉体的消滅の恐怖だけに限定してしまうのは、あまりにも皮相的である。そこでの外傷体験
   の中核にあったものは、被収容者個人の存在価値を根本的に否定する、持続的で精神的な虐待であ
   った。だからこそ、肉体的な拘束が解放された戦後に至ってもなお、精神の負った破壊的傷痕は深
   部の記憶として生き続け、一連の深刻な後遺症を残すことになったのである。
    ……
    それまでのドイツ精神病理学は、うつ病を内因性精神病の1つとしてのみ扱い、抑うつ症状を呈
   する神経症や精神病質とは厳密に区別してきた。……この観点に立つ限り、精神病としてのうつ病
   が神経症のように『体験』に対する『反応』として起こることは有り得ない。
    ……
    新生ドイツ国家は、当然、戦死者の遺族や自国の戦争犠牲者に対する社会的補償(遺族年金など)
   の問題に直面する。しかし、そうした自国民に対する補償を行なうに当っては、同時にナチズムの
   犠牲となったユダヤ人たちへの補償を認めることなしには、外交政策上も取りかかれなかったので
   ある。……
    1953年9月19日に、西ドイツ議会で制定された『連邦補償法』(BEG)は、そうした様
   々の個人的被害に対応する目的をもっていた。……
    補償の対象となる被害者が、主としてドイツ国内に居住している者に限定されたことある。……
    連邦補償法で認められる請求の内容は、迫害に起因する生命の喪失、肉体と健康の損傷、自由の
   喪失、財産の喪失、資本の喪失、職業上の昇進または経済的成功の損害、生命保険および年金支払
   いの損失などである……
    このような補償を申請するために、申請希望者は医療機関で医学的鑑定をうけなければならなか
   った。……とりわけ、身体的ではない精神的被害だけについての補償は認められなかった。
    ……
    補償法第28条第1節に該当する健康被害の有無と程度を最終的に決定するのは、政府の補償実
   行機関ないし裁判所であるが、その決定は基本的に医療機関の判定に委ねられているといってよい。
    ……
    (コレの論文発表当時(1958年)のドイツ精神医学会は)、『反応』という概念は、あくま
   でもうつ病をはじめとする精神病の原因とみなされることはなかった。
    ……
    マトゥセックは、その後強制収容所の後遺症にみられた発病状況を(いとも安易に)『負荷状況』
   として広く一般化する。

    コレ論文以降に活発化したフォン・バイヤーらの状況因論は、これまで『内因性』(つまり原因
   不明)とばかり考えられていた精神病の1つであるうつ病が、強制収容所体験のような特定の負荷
   状況によっても発生することを学説として提示した。しかし、ヘンゼラー論文以降の時期になると、
   それは強制収容所という特殊状況を離れて、日常一般の負荷状況(仕事上の責任の増大、引越し、
   定年退職など)へと一挙に拡大され、『昇進うつ病』『引越しうつ病』『定年うつ病』などの診断
   擁護を増殖させるに至る。


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