いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター(IMC)



















   こ こ ろ の ケ ア  報 道 陣 の 惨 事 ス ト レ ス 対 策


    「震災直後に気仙沼に入りました東京の消防官です。
     帰りましてから震災の写真を見ることが出来ませんでした。
     本日は後世・将来へ申しつぐべき写真の数々を拝見させていただき、
    現地の残土の中から出された方々ひとりひとりが思い出され、涙が止ま
    りませんでした。ただ『やすらかに』との思いでいっぱいです。
     報道の真価を理解している者(つもり)としてあの状況で人々を救出
    したくても将来の為の取材をつづけた報道の方々に敬意を表させていた
    だきます。

                    東京・板橋 男(44歳)」

          2011年4月末から5月にかけて開催された朝日新聞社の震災報道写真展
          の感想文が、12年3月に開催された写真展に掲示されていました。
          ≪活動報告≫12.7.3



  泣けましたか 泣いてください 泣きましょう

      泣かせてあげて  折れないように

                              「朝日歌壇」 11.6.21




  日本経済新聞社

   東日本大震災5年
 写真記者が見た「3.11」
      思い新たに

 ――当時の手記01
  「おにぎり、食べれ」(3月19日)

 「おにぎり、食べれ」
 岩手県宮古市の工藤教子さん(72歳)
 は、3つしかない握り飯の一つを
   記者に差し出した。
 17歳の孫と家財を探しにやってきた
 が、自宅は津波で跡形もなく流されて
 いた。
 「薄型テレビの借金だけは
   しっかり残った」
 冗談を言って、気丈に振る舞う教子
 さん。
 「今までぜいたくしすぎた。
   また一からがんばらねば」
 と、若い孫を元気づける。
 握り飯を丁重にお断りすると、
 「んだば、おこうこ食べて」
 今度はたくあんを差し出した。
 お言葉に甘えて一切れだけいただいた。
 「身体にだけは気をつけてください。
   お元気で」
 別れ際にそう声をかけると、
 教子さんの目からぽろぽろと涙が
   こぼれ落ちた。
 肩にそっと手を回す孫。
 たくあんのしょっぱさが、目にしみた。

  震災から5年、今思うこと
  東日本大震災から5年。あの日から時が止まっ
 たままの人もいれば、終わりのない戦いの日々が
 続いている人もいるかもしれない。たくわんをも
 らった時のことを思い出すと、今でも胸が苦しく
 なり、鼓動が速くなる。そして涙があふれそうに
 なる。あの震災に関わった者として、まだまだ伝
 えるべきことがあると改めて思う。(斎藤一美)


 ――当時の手記02
   「お辞儀」

 「ありがとうございます」
 そのおばあさんは、腰を深々と曲げて、
 目の前を通る消防隊員やアメリカの
   救助隊一人一人に
 丁寧に声をかけていた。
 3月15日、岩手県大船渡市。
 死者、行方不明者は500人を超え、
 三千を超える家屋全壊という被害を
   出しながら、
 なぜかそのおばあさんの態度は
   悠然としていた。
 おばあさんの自宅は沿岸部に位置し、
   津波で流された。
 1960年のチリ地震津波でも
   家を流されたという。
 言葉を失っていると、
 「家はまた建てればいいのよ。
   あなたもお仕事ご苦労様です。
 職場は無事だから
   お茶でも飲んで行ってくださいな」
 苦難を乗り越えてきた「強さ」と
 そこから生まれる「優しさ」を感じた。

  震災から5年、今思うこと
  この5年間、被災地を取材していると「うちに
 寄ってお茶でも飲んで行って」と招かれることが
 何度もあった。震災直後は遠慮していたが、いま
 では厚意に甘え自宅に上がらせてもらうこともし
 ばしばある。「話し相手になってくれてありがと
 う」。あるおばあさんが帰り際に言ったひとこと。
 「優しさ」の裏に隠れる「寂しさ」を感じた。
 (上間孝司)


 ――当時の手記03
  「手に手を取り合って」

 3月13日。
 仙台市若林区の避難所を
   取材しているとき、
 津波が再到来するとの噂が流れた。
 避難場所を移動するようにと
   指示を受ける人たち。
 その中に、最初の津波から逃げるときに
   足をねんざした
 五十代半ばの母親と二十歳の娘がいた。
 大きな毛布を片手に持ちながら
   母に手を貸す娘。
 記者は彼女らに声をかけて、
   母のもう片方の手を取った。
 弱々しい母の手が忘れられない。
 3月14日。
 宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。
 取材中に強い余震が発生した。
 数分後、津波の到来を知らせるスピー
   カー音が遠くからこだました。
 サイレンを鳴らしながら全速力で沿岸
 から   避難する消防車。
 走って逃げようとする記者に、
   消防隊員の一人が
 「ここにつかまって」と消防車の
   ハシゴを指差してくれた。

  震災から5年、今思うこと
  避難所で出会った女性の手の感触は今でも残っ
 ている。必死に走って逃げたときの胸の高鳴りも、
 ありありと思い出せる。あの日から5年、手を取
 り合った人たちは元気にしているだろうかと、思
 いを巡らせる。どこで何をしていても、手を握る
 ことでつながったひとときは、この先もずっと忘
 れられないような気がする。どうか、元気でいて
 ください。(伊藤航)


 ――当時の手記04
  「私、一生懸命生きますから」

 3月13日。
 仙台市若林区の被災地で取材中、
 突然津波警報が出た。
 行方不明者の捜索をしていた警察官や
   消防隊員、
 自衛隊員は一斉に車に乗り込んだ。
 直前に取材した家族のことを思い
 出した。
 彼らは荷物を探しに被災地の
   自宅に戻っていた。
 徒歩だ。逃げ遅れたらまずい。
 記者は車上の自衛隊員に
   家族のことを伝え、
 警報を知らせるように頼んだ。
 自分の車に戻り、出発させようとする
 と、家族が車に向かって泥道を走って
 くる。
 子どもと母親らを急いで車に乗せ、
 祖父は近くの消防車に乗り込んだ。
 無事、避難所にたどり着いた。
 感謝の言葉を何度も繰り返す母親は
   最後に
 「私、一生懸命生きますから」と
   真顔で語ってくれた。
 その瞳の中に一筋の希望を見た
 気がした。

  震災から5年、今思うこと
  無事に避難した家族はしばらく離れて暮らして
 いたが、被害を受けた自宅を修復して再び一緒に
 住んでいる。当時、小学校1年生だった子供は6
 年生になった。集落の人は減り、子供が通ってい
 た学校も廃校になる。母親が送ってくれた手紙の
 中には「心が折れそうになった時は、自分が言っ
 た言葉を思い出して生きてきました」と書いてあ
 った。前を向いて生きる家族に自分も力をもらっ
 た。(今井拓也)

  東日本大震災5年 写真記者が見た「3.11」


 ● 「過熱報道で『市民を殺した』悔やむ元記者
     雲仙・普賢岳噴火から30年」
    共同通信 20.11.17
   「市は同日、普賢岳の麓の一部に避難勧告を出したが、報道各社は黙殺して取材を続けた。中
   尾さんは『行政が大げさに言っているだけ、ぐらいにしか考えていなかった。最初のけが人が
   やけどで済んだため、『巻き込まれても死なない』という誤った認識を持ってしまった』と打
   ち明ける。
    当時、報道各社は溶岩ドームの先端から約3・5キロにあり、火砕流が下る谷の真正面を
   『定点』と呼び、撮影拠点にしていた。ここも避難勧告の区域内となり、市や県警は再三にわ
   たって退去を求めたが、聞き入られなかった。中尾さんは『勧告区域内に立ち入るのは、ジャ
   ーナリストとして当然の権利だ』と考えていたという。むしろ、『報道の自由を当局が規制し
   ようというのか』と反発さえ感じていた。」
   「過熱報道で『市民を殺した』・・」


 ● 「私よりつらい人が・・・閉ざす心」
    朝日新聞 20.3.7
   「児童ら84人が犠牲となった大川小を取材し、学校の対応を批判した。後日、亡くなった教
   職員の1人が高校の同級生だと知った。人目をはばかり、葬儀さえまともにできなかったと知
   人に聞かされた。
    報道の仕事に無力感を覚え、会社を辞めた。別の道に進もうと東京に出たを。そこで異変が
   始まった」
   「私よりつらい人が・・・」


 ● 「記者が語る 最初の1週間」
    神戸新聞 19・11~20.3
   「国道2号付近を西へ。東灘区と灘区の境にある石屋川で、バケツリレーを撮影する。灘区で
   は、見通す限り家屋と電柱が傾いた道が続く。1台も消防車が来ない火災を初めて見た。サイ
   レンの音もなく、不気味に静まり返る。燃える様子を住民が見守り、輪になって話し込んでい
   る。カメラを向けにくい。怒鳴られても仕方がないと思いながらシャッターを切った。
    別の場所では、高校生ぐらいの少女がしゃがみ込み、火の手を前に「お母さん!」と叫んで
   いた。その姿は今も忘れられないが、写真を撮ることはできなかった。
   「記者が語る 最初の1週間」
   ≪活動報告≫21.1.15

 ● 「阪神・淡路大震災25年
    神戸新聞が発行した『臨時明石版』」
    神戸新聞 20.1.13
   「ママ あのとき、神戸新聞は三宮の本社ビルが全壊して、京都新聞の応援でやっと新聞出せ
   てんけど、地域版までは無理やってん。
    で、当時の明石版担当の記者さんたちがいろんな人に助けてもらって、独自の新聞出しとっ
   たんやて。
    それが、倉庫で見つけた臨時明石版=写真【1】。A3判の4ページ。ペラペラやけど、執
   念感じるわ。
   「阪神・淡路大震災25年・・・」


 ● 「阪神大震災23年 記憶のバトン 今も語れない人がいる」
    毎日新聞 18.1.17
   「『違う分野だけど、同じ防災への志を持ってやれば大きな力になる。“同志”だ』。同じ仲
   間として認められ、手を握られたようで、震災を伝えていく責任感と緊張感が一気に押し寄せ
   た。」
   「『被災者だけが『当事者』ではない。想像力を働かせれば、みんな当事者に近い存在になれ
   る』と教えてくれた。」
   「阪神大震災23年 記憶のバトン」


 ● 憂楽帳 『惨事ストレス』
    毎日新聞 16.7.22
   「余震が続く支局で約1週間、同僚らから電話やメールで情報を集めた。過酷な現場に行く同
   僚を気遣い、感情に蓋(ふた)をした。仕事中は落ち着いたような顔をしたが、宿では怖くて
   電気も消せず、服は着たまま。大阪に帰った後も数週間、物音がすると心臓が高鳴った。」
   『惨事ストレス』


 ● 「【熊本地震】『記者はあっち行って』被災者と
      取材者のはざまで感じたこと」
     籏智 広太 BuzzFeed News Reporter, Japan
   「ときには記者も、被災者になる。
    新聞記者として熊本地震を経験した自分が、身を持って感じたことだ。2か月経っても、傷
   はなかなか癒えるものではない。
    「伝える責任も感じているけれど、もう疲れました」。地元・熊本のとある民放テレビ局で
   記者をしている20代の男性は、そうつぶやく。
    市内にある彼の実家は、地震で半壊。家族も一時は避難所暮らしを強いられた。しかし、こ
   の2ヶ月、休めたのは数日だけ。職場では体調を崩し、血尿を訴える同僚も多いという。
    「ストレスはどんどん溜まっていて、それを吐き出す場もなく。どっかで病んじゃうんだろ
   うなという不安があります」
    幼い頃から見慣れた風景が「めちゃくちゃになってしまった」ことへのショックも大きい。
   「自分がどこか知らないところに来た感覚にもなっていました」
    余震も落ち着き、ようやく少しずつ、心の余裕が出てきた。彼はいまも、日々、ふるさとの
   ために奔走している。
   「【熊本地震】『記者はあっち行って』」


 ● 小説『雨に泣いている』
     真山仁 幻冬舎 2015年刊
    主人公は阪神淡路大震災の17日、手当たり次第にカメラにおさめながら歩いていると老婦
   人が「孫が生き埋めになっているんです!」と悲壮な声で叫んでいます。何人かが集まって必
   死にがれきを取り除こうとしていたのでカメラを構えて“助け合う市民の姿”を撮ります。
    「おい、おまえ、何撮ってんねん!」がれきを撤去していた若者にいきなり掴みかかられ、
   名乗ると拳で殴られました。呆気に取られていると目の前にショベルがつきだされます。「取
   材も大事やろうけど、その前に救出ちゃうんか」
    がれきに埋もれた小学校4年生の少女を地域の人たちと一緒になって救助作業を続けて6時
   間後に救出します。少女はかすり傷を負った程度で大きなけがはしていませんでした。それを
   取り上げた記事は、翌日の朝刊に写真と共に載ります。
    しかし少女は後頭部を強打したことによる脳内出血で急死します。翌日、掲載紙を渡そうと
   避難所に行くと伝えられます。
    3日後に少女がなくなったことを記事にします。
    その日から主人公は記事の恐ろしさに耐えられなくなります。
   「その場限りの軽はずみな“美談”を作り上げるから、悲劇をおおきくするのだ」
    震災で被災者に迎え合えなくなり、ついには取材という行為そのものが怖くなってしまいま
   す。

    その後の記者の行動です。
    阪神・淡路大震災を取材する中で一時期、遺体安置所の前に立ち、行き交う人たちに謝り続
   けたことがある。
    そうしなければならないという強迫観念に追い立てられて、遺族らに気味悪がられても、市
   の職員に追い払われても同じ行動をくり返した。
   それをからかった先輩記者との大立ち回りの後、私は千葉の実家に強制送還された。結局、神
   戸支局には戻れず、岡山県の通信局に異動になったのだ。
    その後、岡山支局で県警担当となった頃、阪神淡路大震災の時に遺体安置所だった場所を訪
   ねた。だが、すでにまったく別の公共施設が建てられていた。
    それでも当時の名残を求めて、一時間ほどさまよい、遺体安置所があったと記された小さな
   石碑を施設の中庭の片隅に見つけた。
    持参した花を供えて両手を合わせ、二度と同じ過ちを繰り返さないと固く誓った。ただ、そ
   れで禊が終わったとは思わなかった。もし、また同じような大震災が起きた時、自分はためら
   わずわず被災地に出かける、とも誓った——。

    主人公が東日本大震災の被災地で他社の記者と言い争いになった時に答えます。
   「記者の仕事は、被災者に同情することじゃない。どれほど相手が悲しみに暮れていても、何
   が起きたかを聞きださなければこの惨状は伝えられない。安っぽいヒューニズムなど不要だ」
    15日に書いた記事です。
   「・・・ありのままを記事にすることは不可能だ。
    ただ一つ、記者がこの地でくじけそうになる時に心の中で繰り返す言葉がある。
    言葉を失ってはいけない。とにかく目に映るもの、聞こえる音、声、匂い、そして何より、
   それでも生き続ける被災者の息遣いを伝えるのだ。・・・」

    3人の記者とも、“地獄”を見て体調不調におちいりました。これらは実際にあったことを
   題材にしていると思われます。
    しかし作家は、記者らは現場に戻って・留まって取材をするなかから自信を回復するという
   確信でストーリーを展開をさせます。“言葉で伝える”記者魂を現場で鍛え直すという手法で
   す。
    はたして、作者がモデルにした新聞社のこのような対応は正しいといえるでしょうか。根性
   主義では逆に体調不良者が隠れて続出しているはずです。さらに体調は悪化し、退職者も続出
   します。記者がかわいそうです。
    “弱い”からこそ心にせまる記事が書けるのではないでしょうか。
    あえて小説に異議を申し立てたくなりました。
       ≪活動報告≫18.1.16


 ● 本『記者たちは海に向かった
      津波と放射能と福島民友新聞』
     門田隆将著 KADOKAWA
    震災の数日前、福島浜通りの支局の記者たちは「俺たちは津波そのものを撮るんじゃない。
   津波対策をする人たちの姿をカメラに納めればいいのだ。」と確認しあいます。
    震災当日、取材中に津波から避難する住民を誘導して熊田記者が行方不明になりました。誘
   導された住民は助かりました。
    4月2日に遺体で発見されます。13年、福島民友新聞社は最期まで仕事と向き合った熊田
   という人間を忘れないために「熊田賞」を設けました。

     同僚の記者は、車の中で津波に遭遇した時、必死に走ってくる老人に気がつきました。腕
   には孫らしい小さな子どもを抱き、その後ろをおばあさんが走っていました。反射的にカメラ
   に手を伸ばしました。この時、濁流のなかから車が飛び出してきておばあさんを助けます。
    記者は車を切り返した時、バックミラーに老人が波に呑まれる瞬間が映りました。
    記者の苦闘が始まります。なぜカメラに手を伸ばさないで助けようとしなかったのか。記者
   である前に人間ではないのか。
   「なぜあの時、あの人を助けられなかったのだろう。自分が死ぬのがそんなに怖かったのか。
   自分の命を惜しんだおまえは、えらそうに新聞記者をつづけられるのか。
    そんな自問自答を繰り返してきた。
    あの日、目の前に子供を抱いたおじいちゃんが逃げてきた時、たとえ自分が『死んだ』とし
   ても、助けるべきではなかったのか。
    あの時、津波の写真を撮ろうと海に向かっていた自分は、目の前の光景に一瞬、カメラに手
   を伸ばしてしまった。そのために、助けるタイミングを逸したのではなかったか。おまえが
   『新聞記者だったこと』が、あの人たちを助けられなかったんだ。いや助けられなかったにし
   ても、なぜ、自分の命を『もしかしたら、助けられるかもしれない』という方に賭けなかった
   んだ。」
    3年過ぎてもテレビで津波の映像が流れると涙が止まらなくなるといいます。新聞記者を辞
   めようと思うことの繰り返しです。自分自身が許せないからです。
    この心情(「生存者抑うつ」)からどうしたら脱出できるのでしょうか。
   ≪活動報告≫15.3.20


 ● 『惨事ストレス 救援者の“心のケア”』
    『惨事ストレス』編集委員会 緑風出版
   「私は、奇しくも東日本大震災の約1か月前の2011年2月7日に東京の新聞労連で初めて
   開かれたジャーナリストの惨事ストレスを考える勉強会に参加しました。専門家の方から、ジ
   ャーナリスト、あるいは消防士や警察官、自衛隊員らは直接被災者ではなくても被害の現場を
   見たり、体験したりすることで強く感じるストレスのことを『惨事ストレス』ということを学
   びました。その時に指名されて阪神・淡路大震災の経験を話したのですが、私としても、いい
   勉強会に参加させてもらったなと思っていたら、約1カ月後に東日本大震災が起きました。
    2月は、実践に向けてこれからこの勉強会を深めていきましょうということでした。それか
   らわずか1か月後に真価が試されることになったと改めて感じました。
    神戸新聞の記者も東日本大震災の1週間余り後には被災地に取材に入っています。その時に
   私は労働組合委員長の立場で、彼らに1枚のコピーを渡しました。それは2月の勉強会でもら
   った『災害取材にあたる時の心得 気を付けること』と書かれたビラです。内容的にはシンプ
   ルで『少しでも休養を取ってください。仲間と声を掛け合ってください。少し落ち着いたら、
   仲間や上司と話しあってください。』といくつか箇条書きになったものです。その後、神戸新
   聞は臨時支局を仙台に置くことになり、アパートを借りて立ち上げますが、そこにコピーを送
   って貼っておいてください、何かあった時は見るようにしてくださいとアドバイスしました。
   そのようなことは些細なことかもしれませんが、阪神・淡路大震災の当時は無防備だったので
   すが、少しでも役に立てればという思いで、私なりに取り組みました。
    (シンポジウムでの神戸新聞社社会部・長沼隆之さんの発言)
   ≪活動報告≫14.12.19


 ● 新聞記事 『大震災地元記者 PTSD疑い2割
     [発生1年後 120人調査]
    毎日新聞 14.3.10
   「質問は21項目(複数回答)。記者自身が体験した状況は、「余震の危険がある場所で取材
   ・報道活動を行った」が86.7%。東京電力福島第1原発事故に関連し、「放射線による被
   害が懸念される場所で取材・報道活動を行った」も35%。30%が「遺体を見た、あるいは
   遺体に触れた」、21.7%が「津波による被害を受ける様子をじかに目撃した」とし、「普
   段より過度に体力を消耗した」との回答が75%だった。
    取材に伴う問題や困難については、75.8%が「取材対象者に対する接し方に関して悩ん
   だ、あるいは苦労した」。30.8%は「取材対象者に心理的な負担をかけたり結果的に傷つ
   けたりした」と感じていた。「被害者に強く感情移入し、取材を続けるのが困難になった」と
   回答した人も16.7%いた。「問題や困難はなかった」は6.7%で、9割以上が葛藤を抱え
   ながら取材していた。
    取材や報道の内容については、40.8%が「現場にいた人から非難を受けた」とし、20.
   8%が「プライバシー保護のため報道を控えた」と答えた。一方、56.7%が「取材対象か
   ら感謝された」、41.7%が「自分の報道が誰かの役にたったことを実感した」と回答し、
   やりがいを感じている様子もうかがえる。
   『大震災地元記者 PTSD疑い2割』


 ● 『トラウマとジャーナリズム』
    ジャーナリスト、編集者、管理職のための
     ガイドジャーナリストの惨事ストレス
     By Mark Brayne
   「■注意すべきこと
    トラウマを引き起こす重要なニュース、仕事、またはプロジェクトの直後の数時間と数日間
   は、感情とアドレナリンが非常によく動く。おかしいと感じる―苦悩している、高揚している、
   混乱している、麻痺している、何か 「興奮」 した感じがする、ただ元気がない―のは全く異
   常ではない。
    近年行われた大規模な調査では、ほとんどの人が、大抵の場合、自然にトラウマ体験から回
   復すること、良いソーシャルサポートが回復を助ける重要な要因であることが強調されている。
   『トラウマとジャーナリズム』
   ≪活動報告≫12.2.28


 ● 本『風化と闘う記者たち  忘れない 平成三陸大津波』
    岩手日報社編集局 [著」
    早稲田大学ブックレット 2012年11月25日
  ・「記憶の風化と闘う」 地元新聞社は被災地と運命共同体
    東根 千万億
  ・「その時、記者はどう動いたか」 ドキュメント 3・11
    川村 公司
  ・「追悼企画『忘れない』」 取材の現場から
    下屋敷 智秀
   「岩手日報は、東日本大震災の犠牲者・行方不明者1人1人の人生の一端を紹介する追悼企画
   『忘れない』の取材を続けている。……
    多くの被災者が心の整理をつけられずにいるとき、取材に迷いがないわけではない。犠牲者
   の人となりや賑済寺の状況を詳しくきくことは、大切な家族を失った悲しみや震災の恐怖を思
   い出させる、フラッシュバックを助長することになりはしないかという点だ。……
    どんなに被災者の心に寄り添おうと思っても、実際に被災していない私が家族を亡くした悲
   しみを理解することは不可能だ。目の前で涙を流している人に掛ける言葉は見つからず、でき
   ることも何もない。だが、遺族の気持ちが済むまで何時間でも耳を傾けることで、わずかでも
   救われる人がいることも確かだと感じている。」

  ・「感謝の気持ちを全国に伝える」特別号外=岩手応援 「ありがとう」
    川井 博之
       
   ≪活動報告≫12.12.7


 ● 『ジャーナリストの惨事ストレス
     ― Dart Center 調査からみた海外でのストレス対策の動向―
     東日本大震災における惨事ストレスについて』
    福岡欣治 (静岡文化芸術大学文化政策学部)  安藤清志 (東洋大学社会学部)
    松井豊 (筑波大学人間科学研究科)  井上果子 (横浜国立大学教育人間科学部)
    畑中美穂 (立正大学心理学部)  板村英典 (関西大学大学院社会学研究科)
    小城英子 (聖心女子大学文学部)  2011年
   「これに対して海外では特に1990年代末頃からいくつかの研究によってジャーナリストの
   惨事ストレスが報告されてきており(たとえばSimpson & Boggs, 1999)、従来の研究をふま
   えて Czech(2004)はジャーナリストも職務上の体験から外傷後ストレス障害に罹患する危険
   性があることを指摘している。われわれは中華航空機事故遺族の研究(安藤・松井・福岡,
   2005)や消防職員の惨事ストレス研究とケア実践(松井, 2005b) の中で被災者・被害者が被
   った報道上の問題に接する一方、イギリスにおける消防職員の惨事ストレス調査において、B
   BCが自組織職員の惨事ストレスに対して先進的なケアシステム(TRiM:Trauma Risk
      Management)を展開しているとの情報を得た(松井・井上・畑中, 2005)。」
   『ジャーナリストの惨事ストレス』


 ● 『自分を守り、取材対象者を守る』
    -ジャーナリストの惨事ストレスをどう防ぐかー
    筑波大学 人間総合科学研究科教授 松井 豊
    『新聞研究』 2011年7月号
   「帰社後しばらくすると、自分を責め、うつっぽくなるジャーナリストもいる。『こうすれば
   良かった』という後悔が強まり、『もっと良い報道ができたのではないか』と自分を責め、
   『自分の報道には何の意味もなかったのではないか』と無力感を感じることがある。仕事も日
   常生活にもやる気が出ず、気持ちは焦る者の心身の疲れがたまっていき、退職や自殺まで考え
   るようになる、うつ症状へと結びつくこともある。
    こうした自責感や無力感の背後には、無理な考え(心理学では『非合理的信念』と呼ばれて
   いる)があることが多い。『知り得たすべての事実を報道しなければならない』『いつも完璧
   に仕事をしなければならない』『取材や報道中は、自分の身体のことなんか決して考えてはい
   けない』などの、自他に無理を課す考え方にとらわれているのである。」


 ● 特集 『東日本大震災と災害報道』
    「Journalizm」 2011.6 no.253
  ・「再び『つながるメディア』めざして 大震災下の地方紙・河北新報」
    寺島 英弥 河北新報社編集委員
   「同じ牡鹿半島の女川町議会を取材に行って津波に遭遇した、姉妹紙・三陸河北新報の50代
   記者の記事も13日付朝刊に載りました。『夢中でシャッターを押す。「死ぬかもしれない」。
   本気でそう思った』そうです。雪の中、職員や住民らと役場の屋上に逃れ、津波が引いた後は
   民家で夜を明かし、翌朝に借りた自転車で2時間かけて石巻へ。
    さらに休む間もなく本社にたどり着いた記者は、『ひとつのまちが消えた事実を、どうして
   も伝えたかった』と記しました。赴任地の石巻の住まいは浸水し、気仙沼の留守宅にいる家族
   の安否も分かりませんでしたが、署名記事がきっかけで15日にやっとお互いの声を聞けたそ
   うです。
     ……
   『記者もまた被災の当事者である』という地元紙の『宿命』を背負って、私たちは走ってきま
   した。」
   ≪活動報告≫12.6.29


 ● 『東日本大震災における惨事ストレスについて』
    報道人ストレス研究会  筑波大学大学院人間総合研究科 松井 豊  2011.5
   報道人のストレス


 ● 『東日本大震災で取材に携わった方々へ』
    筑波大学大学院人間総合研究科 松井 豊 他  2011.5
   「東日本大震災から1ヶ月半が過ぎました。あれだけ過酷な現場の中で取材し報道して下さっ
   た記者やカメラマンの皆様、悲惨な映像や写真を編集してくださった編集やデスクの皆様に、
   心より感謝いたします。以前私たちは災害直後に皆様に生じるストレスについて、文書を公開
   させていただきました。本文書では、災害後2~3ヶ月に現れるストレス反応(惨事ストレス)
   とストレスの和らげ方についてご説明致します。
   『東日本大震災で取材に携わった方々へ』

  『放送ジャーナリストの惨事ストレスケアに関する心理学的研究』
    代表研究者 松井 豊 筑波大学 教授  共同研究者 安藤 清志 東洋大学 教授
    井上 果子 横浜国立大学 教授  福岡 欣治 静岡文化芸術大学 准教授
    小城 英子 聖心女子大学 講師  畑中 美穂 立正大学 講師
    放送文化基金『研究報告』 平成17 年度助成・援助分 (人文社会・文化)
   「衝撃を受けた事案に遭った人の中で、取材時・報道時に感じた精神症状をみると、『被害者
   や家族に強く同情した』が最も多く、『取材活動中、見た情景が現実のものと思えなかった』
   という解離反応や『現場から圧倒される感じを受けた』という現場から受ける威圧感や、『無
   力感を感じた』人も多くみられた。全く何も感じなかった人は1割前後しかおらず、8~9割
   の人は衝撃を受けた事案の後で精神症状を示していた。」
   『放送ジャーナリストの惨事ストレスケア』


 ● 新聞記事 『直面した「死」 本質どう伝えるか』
    毎日新聞 11.4.4  丸山博 記者 
   「その日、同僚は『その先』で取材していた。泥まみれの遺体が並ぶ『安置所』の体育館。泣
   き崩れる遺族を写した写真は、今回の津波の本質を切りとっていたと思う。
    震災の本当の悲惨さは、街ががれきと化したことでなく、多くの人が死んだことにあるのだ。
   私は『死』から目をそむ>けていたのだ。
    この現場の本当の姿を伝えるにはどうしたらいいのだろう。一部の週刊誌は遺体そのものを
   掲載し、新聞にも載せるべきだという議論がある。だが、今の私には分からない。私は最近、
   津波に襲われる夢を何度も見る。必死に逃げようとするが足が動かず、津波にのみ込まれそう
   になる場面で目が覚める。新聞の写真を見て読者が悪夢に襲われたらと思ってしまう。」
   『直面した「死」 本質どう伝えるか』
   ≪活動報告≫11.4.1


 ● 新聞記事 『記者の目:息遣い消えた街に立ちつくす』
    毎日新聞 11.3.29 竹内良和 記者 
   「記事を書こうにも、あまりに重い被災の実相に、キーボードを打つ動きは鈍る。宿舎に戻っ
   ても亡きがらの表情がまぶたに焼き付き、明け方まで寝付けない。部屋の照明を消すのが無性
   に怖い。ラジオを流しながら、気を紛らわせて目をつぶった。
    無力感にさいなまれながらその後も三陸海岸沿いの被災地を歩いた。」
   『息遣い消えた街に立ちつくす』


 ● 『新聞ジャーナリストにおける職務上の自己開示
    ──職階からの検討── 』
   ・結城 裕也 ・畑中 美穂 ・福岡 欣治 ・井上 果子 ・板村 英典 ・松井  豊
   ・安藤 清志
   「現在までジャーナリストの惨事ストレスへの対策がほとんど講じられてこなかった背景の一
   つとして、先述のようにジャーナリストは職業的災害救援者ではないために、ジャーナリスト
   の惨事ストレスに関する知見が蓄積されていないことが挙げられる。また、「ジャーナリスト
   は強くあらねばならない」という職業的意識が根強く存在するために、自己のストレスに気付
   かなかったり故意に目を向けないことも多く、結局その影響が表に現れることが少なかった可
   能性も考えられる。」
   『新聞ジャーナリストにおける職務上の自己開示』


 ● 『ジャーナリストの惨事ストレス』
    報道人ストレス研究会 (著)

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