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「引越し」 が引き起こした 「うつ病」
平井富雄著 『精神衛生管理 企業の中の神経症』(中公新書)
精神病者の発生理由を、都市部の劣悪な空気・自然環境のせいにしたり、都市生活の生む喧騒に
帰したりする捉え方は後に変えられていきます。
仕事上の契機から、この発病状況が形成されてゆくプロセスは、たんに個人心理のみでは理解で
きない。それが関係していることは無視できないが、症状に示されている社会的な影響を症状構造
論の立場から分析すると、ある社会的価値観が、このプロセス決定の重要な要因として明らかとな
る。
……
西ドイツにミュンスター(Munster)という小都市がある。北西部でアルザス・ローレヌに近いひ
なびた街だが、ここの大学の精神医学教室にテレンバッハ(Tellenbach,1920)という名の教授がい
た。彼は1960年ごろから、女性の「うつ病」患者に、ある特徴ある発病の契機のあることを知
った。引越しを終えた途端に、彼女らは「憂うつ」となり、悲嘆にくれ、「うつ病」特有の病状を
呈するのであった。よく調査してみると、こういう例はかなり多く、彼はそれを手がかりとして、
「うつ病」の発生の問題究明に立ちあがったのである。
西ドイツの工業化は、戦後めざましい勢いでその成長を企図し、地方都市にもその影響が現われ
だしたのは、1960年ごろである。ミュンスターもその余波を受けて、ミュンヘンやフライブル
クなど、有数の工業都市からの企業の触手がのばされていった。そして新しい企業の設立にともな
って、起業体構成員の転出が多く行われるようになった。引越しは地方都市への人口移動であり、
それをうながしたものは工業化と経済成長を指向する産業主義であった。
ミュンスターもこの例外ではなかった。多くの「引越し」人が登場したが、彼らの奥さんの多く
が、「うつ病」の犠牲となったのである。ヨーロッパ、とくにドイツにおいてそうであるが、その
都市々々、あるいは町や村に住んでいること自体が、先祖代々からの遺産と伝統の象徴であって、
それは、住まう人の精神的基盤でもあるわけである。この基盤がそのまま心の故郷となることは想
像以上に根強い現実なのである。
……
テレンバッハは引っ越しをきっかけとして発病した、「うつ病」患者の心に「故郷喪失
(Heimatlosigkeit)」のいたみを見つけた。そして、みずからの魂がよって立つ基盤と、みずか
らが負い、次代に伝える精神的なもの、この両者を奪ったものが引っ越しにほかならないと考えた
のである。街並みの1つ1つを構成する個人の住まいも、都市の歴史と同じ過去の重みをもつ小宇
宙である。その喪失は精神的なふるさとの喪失であり、生きる心の根だやしは、心をなえさせ、な
えた心はいたみと悲哀にうちふるえる。こうして、「うつ病」が始まるのである。彼はこの種の
「うつ病」を、「引越しうつ病(Umzugsdepression)」と名づけて発表した。そして、たんに物理
的な転居ではない、「内なる世界」の精神的基盤が根こそぎにされる「引越し状況」こそ、その発
生主因であると主張したのである。状況因という言葉を、「うつ病」に関してはじめて提唱したの
は、テレンバッハ教授によってであった。
「うつ病」の状況因を考えるという教授の示唆は、われわれの新しい「うつ病」の発見の端緒と
なったが、同時に、1960年代から西ドイツにおいても、「うつ病」が増加しつつある、との指
摘も重要である。
テュービンゲル大学のシュルテ(W.Schulte,1910-)教授もつぎのように述べている。
「われわれの時代には、悲しいことに空間剥奪がのちに病気を引き起こす症例が多くなってきた。
私の脳裡には、故郷から追放された人々、あるいはほかの理由で、住みなれた空間からほうりださ
れた人々の運命が残っている。注意すべきことは(空間から)ほうり出された最中では発病の危険
はなかった。それにともなう極度の緊張は、むしろ発病を一時的にくいとめるような働きをした。
(中略)ついに新しい空間状況に直面して、以前住んでいた空間の喪失の重さをあらためて感じる
とき、しばしば憂うつな気分と身体の消耗に陥ったのである。」
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