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アメリカ
『ポストフォーディズムにおける〈人間の条件〉』
渋谷望 + 酒井隆史 (『現代思想』2000年8月号に収録)
60年代後半の熾烈さを増したテーラー主義への労働者の抵抗は、テーラー主義のもとで利潤
率の低下もあいまって欧米では70年代、「労働生活の質(QWL)」のスローガンのもと、
「構想と実行の分離」というその公理の再考を資本の側に促した。労働者はもはや分断化された
単純作業の「実行」のみを遂行する「手」としてではなく、「頭」を持った「人間」として扱う
必要がある。かくしていかに「労働」を「人間化」するかということに関する一連のテーマが生
じた。もはや労働者の「満足」を賃金の上昇に還元することはできない。彼らの疎外を予防し、
除去するために必要なのは「意味」ある仕事による満足、「経営参加」による満足、「チームワ
ーク」における信頼関係の構築による満足などなど・・・。そこで生じたのはいわば「労働」と
「人間」をいかに融和させるかというテーマであるということができよう。
「労働の人間化」のテーマがあくまで「労働」(実行)と「人間」(構想)は二律背反である
という前提の上に設定されている点である。この文脈にハンナ・アーレントを呼び入れてみたい。
『人間の条件』の1つの注のなかでアーレントはすでに『労働のヒューマニズム』という用語自
体が自己矛盾していると指摘している。ここでの彼女の批判は、後にQWL運動に大きな影響を
与えたジョルジュ・フリードマンたちに向けられている。アーレントにとっては、人間の条件た
る公共圏における〈労働〉や〈仕事〉のそれとは異質であり、〈労働〉を〈活動〉に接合させる
ことはそもそも矛盾であるかごまかしにすぎないのだ。
このことは、QWLが実際に機能したのが労働側のイニシアティヴが強いスウェーデンにおい
てであったことからも考えることができる。つまりここから「労働の人間化」の定着はマクロな
政治環境のあり方が大きく作用するのだということがわかる。ナショナルなレベルの政府・使用
者・労働の代表の政治参加と、ミクロ(企業)レベルでの産業民主主義がリンクした民主主義的
コーポラティズムにおいて、はじめて「労働」か「人間」かという二者択一を回避することがで
きたといえよう。したがって、こうした環境を欠くそれ以外の欧米においては、80年代以降
「労働者の内面的労働意欲の充足という高尚な目的」としてのQCLへの関心は急速に薄れてい
ったのである。
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