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1930年は、総人口が6千万台になったが、自殺者は1万3942人
松山巌著『群衆 機械の中の難民』(中公文庫 2009年刊)
(1930年頃)
いつの日にか、故郷へ帰ろうとした者も、東京や大阪など大都市での生活が長くなれば、やが
て定住する。墓もまた住まいのちかくに求めた。
今1つの理由は産業の論理が社会の端々まで行きわたったことである。人間もそのなかでは機
械の1つの歯車である。老人や病者が労働力として役に立たぬ者と見なされれば、さらに死はそ
れっきりのことと考えられる。……
柳田國男もこの事態のなかで、あらためて血縁、家を考えざるを得なかった1人であった。死
ねばそれっきりという考え方は、彼岸の世界を遠ざけるわけではない。死はより手軽な、産業社
会からの逃避手段となる。
柳田が「位牌の漂泊」に衝撃を受けた1930年(昭和5年)は、日本の総人口が6千万台に
なった年だが、この年自殺者は1万3942人にのぼっている。
自殺者が急増した理由は、膨張を続けてきた産業社会が破綻したからである。1927年(昭
和2)春、全国各地の銀行は取り付け騒ぎに遭い休業した。3月に片岡直温蔵相が会議で「渡辺
銀行が破綻した」と口をすべらしたことからはじまる“失言恐慌”である。
なぜ1つの失言で銀行の取り付け騒ぎが全国に波及したかといえば、大正期の成り金景気の終
焉とその後の処理がからんでいる。
第一次大戦終了後、財界は政府に救済を願い、政府は膨大な融資を行った。それが不良企業を
温存させる結果となり、関東大震災が追い打ちをかけ、日本経済は弱体化した。さらに1929
年(昭和4年)、アメリカのニューヨーク・ウォール街の株式大崩落により世界恐慌がはじまっ
た。翌年この影響は波及する。国民総生産は2割減、株価は暴落し、輸出入額はおよそ半分にか
った。最大の輸出品であった生糸の価格も半値以下となった、そのあおりで米価も4割下落。企
業は倒産し、大量の失業者をはき出したのである。
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