いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター(IMC)




















  『本』の中のメンタルヘルス 日本




    外資獲得のために深夜労働導入
     たかせとよじ著『官営富岡製糸所工女資料』

    明治政府は近代化政策として「富国強兵・殖産興業」を掲げました。当時、外資獲得のための輸
   出品の第1位が生糸、第2位がお茶でした。
    富岡製糸場の操業開始にあたっての女工の募集は、大蔵省勧農寮の名で各県に「諭告書」が通達
   され、各府県に人数を割り当てられました。技術を習得し、帰省して地方の指導者とすることを目
   的にしました。
    ブリューナは明治8年12月まで指導に当たります。ブリューナの報酬は月600円です。女工
   は1年から3年の契約で、賃金は一等女工が年収25円の能力給でした。
    工場は明かりを多く採り入れる構造になっています。まだ電気がなかった時代に、手作業と品質
   管理には外からの明かりが便りでした。ランプの煤は生糸を汚すという理由などで使用されません
   でした。そのため創立当時の就労時間は「女工は払暁に食し、蒸気鳴管を待て場に登り、朝7時業
   につき、9時半時間休む、12時に食し、1時間休み、4時半帰宿す。大約日出より日没半時間前
   を度とす」です。夏は長く、冬は短くなります。1週間に6日働き、1日休みでした。
    原合名会社になった明治の末ごろからガス灯が使用されて就労時間が延びていきます。
    地方都市では明治20年代終わりころから電灯が普及し、深夜業が進みました。富岡地方に電灯
   がつくのは大正になってからです。

    電力は「経済」を発展させましたが労働者に健康被害をもらしました。昨今の状況と似ています。
   体調を崩して亡くなり、富岡に葬られた女工も多く出ました。
    「ノイローゼになり、取りとめのないことを大声で叫び、ついには寄宿舎内の井戸に投身した、
   さいわい生命に別条はなかった」というような状況もありました。
    若いというよりはまだ幼い女工が全国各地から集められました。生活習慣も違えば言葉もちがい
   ます。今でいうコミュニケーションをとるのは大変でした。そのためホームシックノイローゼに陥
   った者がたくさんいたと想像されています。
    群馬県下の明治17年から33年までの死因別死亡者数は、トップが消化器病、2位が神経病お
   よび五官病、そして呼吸器病の順でした。富岡製糸場でも、全国の製糸工場でも同じ傾向でした。
    全国の製糸工場・綿紡績工場というと呼吸器病、肺結核が問題になりますが、電気の普及によっ
   て機械化が進み、労働時間が長期化するにつれて急増しました。
    明治15年、大阪紡績会社(現・東洋紡)が設立されました。開業時からランプを使って1日2
   交代で深夜労働も行っていました。翌年電灯が導入されます。それ以降、電気が普及した地域では
   深夜労働が取り入れられ、全国に波及していきます。
    製糸工場・綿紡績工場は管理職以外はほとんど女性労働者です。当初は都市貧民層や近傍農村か
   ら集められましたが、明治26年に富岡製糸場が三井家に121460円で払下げされる頃には、
   労働力の需要が拡大し、遠隔地からの募集が本格化しました。前貸金により人身拘束されたうえに
   低賃金でした。労働時間は、平均13時間から14時間、長い時は17時間から18時間にも及ん
   だという記録が残っています。


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