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資産を投げ出して設立した「社会問題研究所」
城山三郎著『わしの目は十年先が見える ―大原孫三郎の生涯―』
1919年2月(大正8年)、倉敷紡績の経営者の大原孫三郎は、社会問題研究所を設立しま
す。現在の法政大学大原社会問題研究所の前身です。所長には、労働組合期成会を設立した高野
房太郎の兄の高野岩三郎が就任しました。
孫三郎は社会問題研究所だけでは満足しなかった。
社会そのものを相手にするだけではなく、経営者としては現実の労働環境も気がかりであった。
従業員を人間として人格として遇するという以上、当然、日々働く環境を健康的なものにしなく
てはならない。……倉敷では真夏の暑さが少しでも減るように、工場の煉瓦壁に蔦を這わせるこ
とにしたり、井戸水を循環させる冷房装置をとり入れるなどしてきた。
万寿工場の換気をよくするため、大きな換気塔も建てた。煙突ならぬ『塵突』と呼ばれたこの
赤煉瓦づくりの塔は、遠くからもよく見え、倉敷の名物にもなった。
ただ、孫三郎はそうした対症療法に満足ぜず、社会問題研究所の中に、疲労生理実験室を設け
させたが、その担当者である若い医学士暉岡義等に目をつけた。……
孫三郎は快諾し、暉岡の希望通り、万寿工場敷地内の工場と寄宿舎の中間の空地に生理学研究
所、心理学研究所、栄養研究所などから成る研究所をつくり、若手の研究院を揃え、『倉敷労働
科学研究所』 の名の下にまず工場疲労問題の調査研究にとりかからせた。
労働科学研究所ではテイラーの科学的管理法に対する学問的検討や、産業労働の生理学的・心
理学的研究が開始されます。
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